ドキュメント文化を支える不文律

ROUTE06では、GitLab Handbook*1を参考に、全社に関係する情報をハンドブックとして社内に公開しています。ハンドブックは2023年8月時点で383ページ*2あり、50人前後の組織規模の会社としては文章化に積極的なことが現れている数字だと思っています。

また、ハンドブックとは別に、プロジェクトごとのレポジトリでは技術選定や設計方針をADR*3で残していたり、参加したセミナーのレポートをGitHub Discussionsに書いていることからも、ROUTE06で働く人は文章を書くことが習慣になっていると感じます。

そんな中、ある日社内のSlackに一つの問いが投げかけられました。

ドキュメント文化というのは、たとえばマニュアルに書いてないから分からなかった・故になんらかの失敗が発生した場合、マニュアルに書いていなかったことが悪いみたいな考え方になるのでしょうか

社内のSlackでの反応は概ね「そんなことはない≒マニュアルは悪くない」というもので、私も同じ立場です。 そして、反応の内容以上に興味深かったのが、事業部や職種を超えて、いろいろな人がこの問いについてSlack上でコメントしたり、リアクションをしていることでした。

その様子を見ていて、この問いは社外の人にも何かしら気づきを与えるきっかけになるのかもしれないと思い、この記事を書いています。

以下、社内での会話を踏まえつつ、私の考え(社内で内容のレビューはしてもらっています)を書いています。私の中に明確な答えが出ているわけではないので、断定はあまりしておらず、まどろこしい言い回しになっているところも少なくないですが、お付き合いいただければ幸いです。

ドキュメント文化にはそれを支える不文律がある

「ドキュメント文化にはそれを支える不文律がある」矛盾しているようですが、これが私の考えです。不文律とは、文章になっていない、ドキュメントになっていない掟、考え方のようなものです。暗黙知という言葉も近いものを表現していると思います。

そして、その不文律とは、どれだけドキュメントを作ったとしても、全てのことをドキュメントにすることは決してできないという事実をドキュメント文化の中にいる人たちがどれだけ真摯に考えているかということです。この程度を文章にすることはできないと考えています。

仮に、「ドキュメント文化を育むためには、Xが必要だ」というドキュメントを書いたとして、X以外は気にしなくていいのか?というとそんなことはないですよね。そこにYやZを足したとしても事態はあまり好転しないでしょう。何かを文章にすると、相対的に文章にしていないことが軽く見られがちですが、そうではないと私は思います。

このことを「大豆田とわ子と三人の元夫」の中で、松たか子さん演じる大豆田とわ子が、母の死を言葉にできない心情を吐露しているセリフが丁寧に捉えています*4

悲しいっていえば 悲しいんだろうけど
言葉にしたら 言葉が気持ちを上書きしちゃう気がしてさ
何かね フワフワしちゃってんだよね

私たちはフワフワに囲まれており、その一部分をカメラで撮影するように切り抜いて言葉にし、言葉を紡いで文章にしています。それは素晴らしいことですが、フレームの外側にもフワフワは続いているし、角度を変えれば同じものも違った表情に見えるでしょう。フワフワは言葉になった・なっていない問わず、等しく大切なはずです。

ドキュメントは、ある状況や特定の目的に対する判断や考察を最大限に助ける存在だと思いますが、環境が急速に変化する現代で同じ状況が訪れることは稀でしょう。常にドキュメントと全く同じ方法でうまくいくわけがないのです。

もう一つ、独立研究者の森田真生さんが「現代思想」でのインタビュー「小さな庭から始まる新しい思考の可能性」の中で自然の豊かさと複雑さについて語っている一文を引用します*5

僕は、子どもたちとともに日々、「開かれているのに隠れている」自然を前にして驚き続けているのです。自然の無尽蔵さ、生命の過剰さ、一つの概念で「本質」を掴もうとしたところで、そこから溢れ出していくこの世界の豊かさと複雑さに、僕はいつも心を動かされているのです。

複雑な事象や手順を丁寧に説明しているドキュメントがあったとしても、そこに隠れているものは必ずあります。哲学者は一つだけではなくさまざまな概念を使い「本質」を捉えようと試みていますが、別の哲学者によって捉えきれていない面を指摘され、そういった営みを数百年続けても「本質」はまだ見つかっていません。追いかけても追いつけぬものなのかもしれませんね。

不文律を感じる心がけ

とはいえ、「文章になってないこともあるから、あとは各々考えて!」と言うのは無責任だと思っているので、ここからは、不文律を感じるきっかけになりそうな考え方を紹介します。とはいえ、少し前に話したように、考え方を抜け漏れなく言葉にすることはできないのであくまでのヒントのかけら、例えるなら、夜空を見て、いくつかの星座を見つけ方を示すようなものだと思ってください。星座は他にも無数にあるし、自分で作ってもいいものです。

読み手は「書かれていないことがある」ことを忘れず、些細な違和感を大切にする

文章を読む時に心がけたいことは、これまでに繰り返し出てきている「ドキュメントには書かれていないことがある」という事実を忘れないことです。全てを疑うとそれはそれで大変なので塩梅は難しいところですが、少なくとも書いてあることを鵜呑みにせず、自分の感覚とずれていないかを確認しながら読み進めたいですね。

自分の感覚とずれている内容や表現に気づいた時は、例えそれが些細なものであっても見逃さず、見て見ぬふりをせず何に違和感を感じたのかを考え、できればドキュメントを書いた人や自分が所属するチームで違和感について話ができると良いと思います。

これは「初恋の悪魔」で、林遣都さん演じる鈴之介が仲間たちと事件の推理を始める時、象徴的なポーズとともに「マーヤのヴェールを剥ぎ取るんだ*6」と声をかけ、先入観を捨て、これまでは見落としていた違和感をみんなで一つずつ繋ぎ合わせて真相に迫る姿に似ているかもしれません。

公式のダイジェスト動画の中にそのセリフを言っている部分があったので動画を貼っておきます。これから見たい人は飛ばしてください。

youtu.be

冒頭に引用した社内Slackでの問いはまさしく些細な違和感というか疑問が言葉にされたことで、そこからいろいろな議論が始まったり、こうして新しい文章を書くことに繋がっていて、素晴らしい例の一つだと思います。

書き手はできる限り「書かなくてもわかるでしょ」に抗い、痕跡を探究する余地を未来に用意する

「書かなくてもわかるでしょ」は書き手の思い込みです。ただ、仕事として文章を書く時にどこまでも遡って言葉の定義をしていくと時間が足りなくなりますね。時間との折り合いの付け方は難しい問題です。私は、限られた時間の中で丁寧に綴るべき要素の一つが思考の痕跡だと考えています。

決定事項は重要ですが、同様にそこに至る過程(どういう選択肢が出て、なぜその選択をしたのか、どうして他の選択肢は選ばなかったのか、そこに葛藤はあったのか)を残しておくことで未来に痕跡を探究する余地が用意されます。これは、読者が違和感を感じた時に、違和感を感じた場所や、他の可能性を探る道標となります。

痕跡、特に葛藤を言葉にすることは、西野カナさんが得意とするところだと思っていて、昔、私の個人ブログで取り上げたことがあったので紹介します。

medium.com

また、このテックブログで、文章を書くときには思いやりを持つといいかもという話を書いているので参考に紹介します。

tech.route06.co.jp

「書かれていないこと」に気づくために

読み手の時に「書かれていないことがある」ことを忘れずにと書きましたが、忘れていなくても気づけないことが多々あります。自分が書き手の時も、自分が書いていないことに気づけないときが少なくないです(今もそう)。

根性論ではなく、もう少し気づく機会を増やす方法というか手がかりみたいなもはないかと探していたところ、哲学界のロックスターと称されるマルクス・ガブリエルさんの「なぜ世界は存在しないのか」の中で芸術について述べている一文がヒントになりそうでした*7

芸術の意味は、通常であれば自明にすぎない物ごとを、注目するほかない奇妙な光のものに置くことにあります。(中略)つまり芸術は、新たな意味でわたしたちを驚かせ、日常とは違った角度から対照を照らしてくれるわけです。

映画でも音楽でも絵画でも詩でもいいのですが、観た時にハッとした経験は誰しもがあると思います。習慣的に無意識にやっていたことの別の側面が見えたり、正しいと思っていたものの正しさがわからなくなったりした時、これまで書かれていなかったことに気づけているかもしれません。

この記事でも、書籍だけではなくテレビドラマやポップミュージックを引用しているのは、読んでいただけた誰かをハッとさせるきっかけになればいいなという願いがありました。

現時点で大きな課題や問題意識があるわけではないのですが、ドキュメント文化は不文律という曖昧で脆弱な価値観に支えられているという認識をもち、フワフワしたものを言葉や文章にする一方で、言葉になっているものに隠れたフワフワの影を見つけて光を当てていきます。

*1:https://about.gitlab.com/handbook/

*2:ハンドブックはgitで管理しているので、レポジトリで find ./docs -type f -name "*.md" | wc -l して計測

*3:ADRについては、こちらの記事で詳しく紹介しています。チームにおける ADR 導入から 1 年経った振り返りと感想 - ROUTE06 Tech Blog

*4:大豆田とわ子と三人の元夫 #1

*5:現代思想2023年7月号 特集=〈計算〉の世界

*6:マーヤはサンスクリット語で幻影という意味

*7:なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)